昼食後摩文仁の丘に(マブニのおか)
摩文仁の丘を背景にした「平和の丘」モニュメント。この隆起珊瑚礁の丘陵は沖縄防衛の陸軍
第32軍最後の地となったところである。現在は「平和の広場」として整備されているが、かつては
この地で米軍戦車と爆雷を抱いて突進した、日本軍兵士との死闘が繰り広げられた場所なのである。
平和祈念公園 平和への祈りをささげようと沖縄戦最後の激戦地となった摩文仁の丘に造られた
広大な公園。平和祈念堂は正七面体角錐型で延建築面積1,571㎡ 高さ45mの
鉄骨鉄筋コンクリート造り。美しい花と緑が広がる園内には犠牲者の遺影や遺品などを展示する
沖縄県平和祈念資料館、戦争犠牲者の名を刻む平和の礎などがあります。
島守の塔。太平洋戦争沖縄県職員戦没者慰霊塔
岡山県の塔 太平洋戦争中、沖縄南方諸地域で戦没した岡山県出身者33,799名を祀るうち
沖縄戦での戦没者は1578名。塔は岡山県産の銘石北木島の御影石製。合掌式の上屋が塔を
覆っている。これは激しい風雨から「みたま」を護り、安らかな眠りを誘うという形を表している。
摩文仁の丘と海 沖縄の海が見渡せる絶景唯一の地上戦が行われた場所では有りますが
それとは別としてとても眺めの良い丘の上にあり南部のこの地域は浜ではなく波が打ちつけられる
岸壁のように続いています。
平和の礎 沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑。
摩文仁の丘とその周囲は平和祈念公園となり、広場には国の内外、軍民間を問わず沖縄戦で
亡くなった人々の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」と名づけられた記念碑が屏風状にかつて
多くの人が身を投じた海に向かって立ち並んで見えています。
平和の丘
昭和54年戦没者を永く追悼するため摩文仁の丘に新たに造られた国立沖縄戦没者墓苑に
遺骨が移されました。納骨堂には約18万余柱の遺骨が納められ参拝者が絶えません。
平和の火 平和の礎が配置された石碑は、ここを中心として放射状 に並べられています。
米軍の沖縄初上陸地である阿嘉島で採取した火と、広島の平和の灯、長崎の誓いの火を合火し
1995年の「慰霊の日」にここに点火したものだそうです。消えているように見える時もありますが
中心には種火がついていて記念式典などの時に火を大きくするそうです。
水の下にはアジア地域の地図が描かれていて、円の中心が沖縄になるようになっているそうです。
摩文仁の丘を背景にした「平和の丘」モニュメント。この隆起珊瑚礁の丘陵は沖縄防衛の陸軍
第32軍最後の地となったところである。現在は「平和の広場」として整備されているが、かつては
この地で米軍戦車と爆雷を抱いて突進した、日本軍兵士との死闘が繰り広げられた場所なのである。
平和祈念公園 平和への祈りをささげようと沖縄戦最後の激戦地となった摩文仁の丘に造られた
広大な公園。平和祈念堂は正七面体角錐型で延建築面積1,571㎡ 高さ45mの
鉄骨鉄筋コンクリート造り。美しい花と緑が広がる園内には犠牲者の遺影や遺品などを展示する
沖縄県平和祈念資料館、戦争犠牲者の名を刻む平和の礎などがあります。
島守の塔。太平洋戦争沖縄県職員戦没者慰霊塔
岡山県の塔 太平洋戦争中、沖縄南方諸地域で戦没した岡山県出身者33,799名を祀るうち
沖縄戦での戦没者は1578名。塔は岡山県産の銘石北木島の御影石製。合掌式の上屋が塔を
覆っている。これは激しい風雨から「みたま」を護り、安らかな眠りを誘うという形を表している。
摩文仁の丘と海 沖縄の海が見渡せる絶景唯一の地上戦が行われた場所では有りますが
それとは別としてとても眺めの良い丘の上にあり南部のこの地域は浜ではなく波が打ちつけられる
岸壁のように続いています。
平和の礎 沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑。
摩文仁の丘とその周囲は平和祈念公園となり、広場には国の内外、軍民間を問わず沖縄戦で
亡くなった人々の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」と名づけられた記念碑が屏風状にかつて
多くの人が身を投じた海に向かって立ち並んで見えています。
平和の丘
昭和54年戦没者を永く追悼するため摩文仁の丘に新たに造られた国立沖縄戦没者墓苑に
遺骨が移されました。納骨堂には約18万余柱の遺骨が納められ参拝者が絶えません。
平和の火 平和の礎が配置された石碑は、ここを中心として放射状 に並べられています。
米軍の沖縄初上陸地である阿嘉島で採取した火と、広島の平和の灯、長崎の誓いの火を合火し
1995年の「慰霊の日」にここに点火したものだそうです。消えているように見える時もありますが
中心には種火がついていて記念式典などの時に火を大きくするそうです。
水の下にはアジア地域の地図が描かれていて、円の中心が沖縄になるようになっているそうです。
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by star-land9
| 2013-03-17 20:46
| 旅